うがぁ〜!! て、叫びたくなる時あるよね。最近、精神不安定で機嫌悪いの態度に出てて、言う必要の無い事言って迷惑や心配かけて、本当ごめんなさい。しばらく復活できそうにないが、改めないといけないと思いました。悪口って絶対言わない方がいいの。それを言った時点で自分の質を下げてしまうし、周りにも嫌なのがうつる。悪は自分に帰って来るから自己嫌悪しちゃうし。悪循環で良い事無いもん。私はこう見えて、小心者で(はいそこ否定しな〜い)、大概スンススンみたいな顔しつるけど、結局ハリボテだからつつきゃすぐ崩れる。確固たる信念がある時は強いけど、頑固だが優柔不断と面倒な性格のために、迷ってるときは本当に弱い。おかげで今、ストレスの発散みたいなのが全く出来なくなっちゃったのさ。いつも頭の中に音楽が流れてて、風呂は格好の歌い場なのに、この頃歌えなくなっちゃった。かなり末期症状かもと自覚。たぶん、実家にいた時は妹と喧嘩したり、物に当たったり(壊した数々のあれらごめん、本当は良くないよね)なんらかの形で外的に発散してたと思うけど、この狭い部屋じぁ追いかけっこも出来やしないしね。涙にはストレス物資が含まれてるから、たまに泣いた方がいいと三輪さんが行ってた。泣けないなぁ。それでつい食べすぎて太って、さらにストレスと自己嫌悪。とかなったらお先真っ暗だわ。ありえん。最低最悪や。だから、やっぱりちょっと改めようと思います。 PR
いや、もう10月終わりますやん! 安藤美姫選手がGPアメリカ優勝〜!! わーい!!うれしいだぉ。 何となく、浅田真央選手よりミキティを応援してしまう。 なぜ?別段好みじゃないけどね。なんか、頑張って欲しいのよ。 そう、昔からスケートとか新体操とかダンスとか好きだった私。感性に訴える、芸術性の高い競技はついつい見ちゃいますね〜。個人的には芸術競技の選手のポーズとかフォルムが大好き。演劇やミュージカル、ダンスにも共通するけど、肉体の持つ曲線の美しさが好きで、ついつい見ちゃうのかも。競技だけど芸術、、だからジャッジの難しい所なんだろうな。採点も競技寄りだけど、やっぱり見てる人を引き付ける表現の部分も大事にしてほしいですね。 私は、絵を描くのも、料理するのも、歌うのも、フィギアスケートも、同じだと思うのですよ。 「如何に自分がこだわるか。」これで、出来が変わる。 ちょっとした事かもしれないし、人には伝わるかわからない。けどこだわるかどうかで、その先に見える物は変わってくるんじゃないだろうか?だから、ただ妥協した物と考え抜いた末の決断とでは、たとえ同じ物が出来てるようで全然違うんだと思う。結果が全ての事も往々にしてあるけれど、自分の次が大きく変わるんだろう。 こだわるのと頑固なのは違うと思うけど。ね。 ま、こだわりも人それぞれだから、風とロックの箭内さんみたいに「こだわらない事にこだわる」ってのもこだわりの一つだけど。なんだって、そうだろう。〆切りの直前で妥協しても、此所は唯一こだわったってのは作品への自信になるし、それがなきゃ面白くないよね。と、私は思う。 今回のGPファイナルの安藤選手の滑りには、そのこだわりが見えた気がする。スケートは協会がどうのとか、いろいろあるけど、こうやって頑張ってる人が応援される環境を作って行くべきだよね。 頑張ってる事が全て報われる訳じゃないけど、それは無駄にならないと思って、あたしも頑張らなきゃ(卒制と単位な…汗)。
空に願う事 秋初め、とかいう日記を書きました。 今日から後期だったもんでね。 しかし今日は、1分でいいから空に黙祷をするべき日でもありました。 忙しなく過ぎて行く日常の中にある、何気なく感じる幸せや哀しみ。忘れそうになるそれらを、ふと思い出す。そんな今日と言う日。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 秋に向かって、空も人も色を変えようとし始めるこの時期。 9月11日。 この数字を見て、もうそんな季節かと、今後の自分のスケジュールを考えて『ああ、やることたくさん。』と自分に嘆いてみた。 そしてもう一つ思い出す。 9月11日。 そう、ワールドトレードセンターがグラウンド0になった日。 5年前の夜、テレビを見てた母が私を呼んだ。 そこには煙を上げ崩れている高層ビルが映っていた。 映画だと思った私は、右上のニュースの文字に驚愕した。 画面から目を逸らせずに居た。 今思えば、ほんの数秒だったろう。 異様に長く静かな、それで居て身体の何処からか、じわじわと込み上げてくる何かが激しく騒いでいるように感じられた。 自分の中の何かが痛いと悲鳴をあげた。 あの夜を思うこの瞬間に、やはり、何かが痛いと言う。 そう感じる日は、年に数回ある。 8月の9日と15日、8月は1日(じいちゃんの命日)もそうかな。それに今日。 どれも、暑くるしいセミの声に包まれている気がする。 暑い、熱い夏。 私は、世界平和を祈れるほど善人じゃない。 自分の事に精いっぱいで、きっと知らずに誰かを傷つけている。 自分を大切にすることさえ、投げ出したい時もある。 そのくせ、傷付かないために必死に自分を守る。 嫌いな人も居るし、嫌な事もたくさんある。 歴史の中で、多くの人が生まれ死ぬ。 そのなかで、理不尽に消えた命がいくつあるだろう。 時代、文化、宗教、政治、暴力。 少なくとも今、私は生きている。こうして、ここに生きている。 私は自分の好きな人が幸せであってくれたら良いと思う。 すごい、自己的だけど、好きな人には笑って生きて欲しい。 だから、私はなるべく笑って生きていたいなぁ。 この空が青いと感じられるように。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー なんか、淡々と暗い日記だな。 いやね、全てを平和とう言葉で幸せに出来るなんて思わんけどさ、やっぱり平和がいいよね。そりゃそうでしょ。 一青窈のハナミズキとか、MINMIのアイラとか、もっとメジャーだとジョンレノンのイマジンとか、小田和正とか、平和を祈る歌ってたくさんあるじゃない?それらも、ホントは小さな願いの声で、それで世界が平和になるってもんじゃないかもしれないが、誰かに届けば良いと歌うのだと思う。 だからさ、小さく小さく、まずは自分が生きる事を、笑う事も泣く事もしたらいいのよね。なかなか難しいかもしれんけどさ。
ツンデレラとホカズキンちゃん わりと人見知りでびびりな私。そうは見えないらしいがね。ツンとしてるし、胸はってたってるとか、堂々としてるとか言われる。まぁ、一人で居るのも好きだし、出かけたりもする。けど、団体で居る時に一人で居る孤独感はすんごい嫌い。だから、「私は何も怖くありませんよ。」って顔してる結果、堂々とみたいに見えるのでしょう。所詮、それらは私の精一杯の虚勢なのです。意味なくつるむってか、ほらどこまでも連れションとかさ、そういう、べたべたした感じは嫌いだし。ギャルの溜まってる感じは苦手で理解不能。節度ある範囲で好きなようにしたらいいし、馴れ合いは阿呆くさい。けど、そういうのとはちょっとちがくて、居場所がない不安定な感じは、本当落ち込むし痛くなる。それが心から嫌いです。ネクラでポジティブな私は、家でその日一日のトークの反省とかするし、昔の失敗や失態を思い出しては、あぁあたし消えてとか思う事もしょっちゅうある。人前にでるのも緊張しいだから、かなりドキドキだし、本当かなり駄目で弱い。自分ではそう思ってる。他人がなんと言おうと。弱くて、狡くて、汚い、ちっぽけな人間です。でもね、最近良く言われる。「セリキヨが居ると安心する」と。なんか嬉しいね。違う人、五人くらいに言われた。それってかなりすごい。安心て動物の本能において、かなりパーソナルスペースまたは心に近くないと得られないと思うから。こんなあたしでも誰かのなにかになるんだ。あたしには『誰かのために何かするのは、誰かのためになりたい、自分のためだ』という自論がある。もし、何もしなくても誰かのためなってるなら『そこに生きていることがわたしのできる唯一にして最大の事』だと思う。弱くて駄目な私だけど、誰かのためになりたい自分のために出来る限り生きる事をしたいとおもいます。なんかまじめくさい日記だなぁ。そんな日もあるよね。うん。ちょっとさ、誰かのために慣れたらしい事が嬉しかったのさ。
プチ哀しみ 最近、好きなサイトが次々と閉鎖している。かなり寂しい。理由は、個人的に色々あるから仕方ないし、それはとやかく言う問題ではない。大事なのは、そのサイトに勇気づけられたり、癒されたり、萌えたりしていた私がいる事。だから、せめて「ありがとう」を言わせて欲しい。届くかわからないけど、、。そういうもの書きさんや絵描きさんに、助けられてきた私です。以下過去回想。私は小学校のとき、そんなにひどくないまでもイジメを受けていた事がある。まあ、完全無視程度だったし、お金とか暴力とか絡まないから、テレビや雑誌で取り上げられる物よりは軽いものだろう。それでも、世界が変わったのはよく覚えてる。思った異常に存在否定と言うのは辛いもので、私は無関心ほどの凶器は無いと思う。だから好き嫌いがある物は、気になっている証拠であり、関心があると言う事で、それは好きになる可能性も、嫌いになる可能性もあるのだから無関心より全然良いと思う。消えたいとか、仕返しとか考えたりもしたけれども、今となっては人生の良い糧だと思う。美大生でいじめられた経験を持つ人は多い。少なくともあたしのまわりには数人いる。あたしが思うに、みんなちょっと変わってるし、ある意味目立つからね。けれど今、悲観的に思ってる人はいないし、みんな今や笑い話にしている。みんな芯が強いと思う。自分の道があるからね。そんな彼女らが作るエンターテイメントやアートが、人を楽しませたりするのだから世の中うまくできている。だって、きっとそんな経験した心をもった人にしか出来ない力があるのだもの。誰かの笑顔を作るそんな仕事が出来る、素晴らしい心があるんだ。私も、あの時の出来事は必然だったのでは無いかとさえ思う。あの時、私の中では人生の最底辺を見た気がした。ちょっと辛い事があっても、『あれを乗り越えたのだから、まだ行ける、あれより下は無いのだから』と、『大丈夫』と『ピンチはチャンス』だとおもうことが出来る。あの時イジメた阿呆共にありがとうまではいかなくても、ありくらいは言ってもいいかもしれない。それに、ネクラのポジティブの私としては、当時は苦しいながらに「ガキ臭い方法しかできんのやな。」とか思っていた。その時に女の子の馴れ合いみたいなのにほとほと嫌気が差したのは確か。中学とかでも、縄張り争いまで行かなくてもそんな女子のグループ見てると、阿呆臭いと思ってた。おかげで心から信じれる人間なんてそんなにいないし作らないけど、信じたらとことん信じるようになった。今のスタイルの根底にある想いかもしれん。例えば、あたしがめっちゃ大事な子が同じくらいの気持ちを持ってなくても、あたしが好きで大事ならそれでいい。話が、暗い方向にそれてしまった。そんなつもりじゃなかったんだが。わたしは好きな物は好きって良いたいし、いいものは良い言おうと思う。それでも元気の波はあるから、落ち込むことはしょっちゅうだけどね。結局なにが言いたいのかってーと、そんな時、セーラームーンに励まされて生きたのですよ(今の原点!)夢っていいな。みたいなさ。そこ〜??みたいな声も聞こえるようですが。エンターテイメントやアートのすごいとこなのよ!これが、漫画読んでると、涙とまるんだよ?!すごくない??それは、=本だったり、お笑いだったり、音楽だったりするかもしれない。そこで、芸術の底力を感じたのです。まあ結論。オタク歴の始まりみたいになっちゃったな。いや、でも否定はしない。なにが悪い!好きなんだもん。いつか、ね。私も誰かの笑顔を作れる作品が作れたらいいな。